2009年06月18日

抗精神病薬であるクロルプロマジンを含む群である

1952年にはじめて用いられた最初の抗精神病薬であるクロルプロマジンを含む群である。代表的な薬物としてはクロルプロマジン(商品名:コントミン、ウインタミン)、レボメプロマジン(商品名:ヒルナミン、レボトミン)、チオリダジン(商品名:メレリル)、フルフェナジン(商品名:フルメジン、デポ剤としてフルデカシン)、プロペリシアジン(商品名:アパミン、ニューレプチル)、ペルフェナジン(商品名:ピーゼットシー、トリホラン、トリオミン)などがあげられる。側鎖によって細分類されることがある。

アルキルアミノ側鎖群
クロルプロマジン(商品名:コントミン、ウインタミン)、レボメプロマジン(商品名:ヒルナミン、レボトミン)などが含まれる群である。この群に含まれる薬物はα1遮断作用が強く鎮静作用、催眠作用が非常に強いため興奮、不穏の患者に用いられ、不眠の強い患者の睡眠薬としても用いられる。吐き気止めとしての作用も強いものが多い。非特異的受容体結合も強いため、抗コリン作用も出やすい。低力価抗精神病薬の代表であり、一日200mg程度の使用が一般的である。

ピペリジン側鎖群
プロペリシアジン(商品名:アパミン、ニューレプチル)などが含まれる。低力価抗精神病薬のなかでは力価は強い。錐体外路障害が弱く、抗コリン作用、起立性低血圧が多いのは他の低力価抗精神病薬と同様である。α1遮断作用は強いが悪心に対しては効果が弱い。
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ピペラジン側鎖群
フルフェナジン(商品名:フルメジン、デポ剤としてフルデカシン)、ペルフェナジン(商品名:ピーゼットシーなどが含まれる。鎮吐作用が強いものが多く周術期の鎮吐薬としてよく用いられる。他のフェノチアジン系に比べるとかなり高力価であり高力価抗精神病薬としての特性をもつ。

ブチロフェノン系 [編集]
定型抗精神病薬の代表的系列である。これはハロペリドール(商品名:セレネース、ハロステン、デポ剤としてハロマンスなど)が含まれるからである。高力価抗精神病薬の代表格でもある。抗コリン作用は弱く、錐体外路障害は起こりやすい、α1遮断作用は弱いが鎮吐作用は強い。代表的な薬物としてはハロペリドール(商品名:セレネース、ハロステン、デポ剤としてハロマンスなど)、ブロムペリドール(商品名:インプロメン)、チミペロン(商品名:トロペロン)、スピペロン (商品名:スピロピタン)、ピモジド(商品名:オーラップ)

鎮吐薬であったドパミン拮抗薬であるメトクロプラミドを改良する過程で生じた系列である。スルピリド(商品名:ドグマチール、アビリット、ミラドールなど)、スルトプリド(商品名:バルネチール)、ネモナプリド(商品名:エミレース)などが知られている。ドパミン受容体の中でドパミンD1受容体の阻害作用が殆どない系列である。スルピリドはドパミンD3受容体を強く抑制し覚醒度を低下させず、精神活動抑制作用が殆どなく、錐体外路障害も極めて稀である。幻覚や妄想を抑制する効果はかなり高い。脱抑制作用も強い。消化管と中枢神経の両方に効果があるためストレス性胃潰瘍などには非常に良い効果がある。うつ病や神経症にもよく用いられる。スルトプリドは全く毛色が異なり強力な鎮静作用をもち、錐体外路障害が強い。躁病の治療に用いられることがある。ネモナプリドはドパミンD2受容体、ドパミンD3受容体、ドパミンD4受容体を抑制しかなり強力な抗幻覚、抗妄想作用をもち、副作用も弱い。

2009年06月01日

ジョルジュ・キュビエは1796年に現生のゾウと

化石のゾウの違いを発表した。彼はマストドンとマンモスが現生のいかなる生物とも異なると結論し、絶滅に関する長い議論に終止符を打った。1788年にはジェームズ・ハットンが非常に長い間、連続的に働く漸進的な地質プロセスを詳述した。1811年にはキュビエとアレクサンドル・ブロンニャールはそれぞれパリ周辺の地質について研究を発表し、地球の先史時代研究の先駆けとなった。キュビエは化石に見られる動物相の変移を説明するために天変地異説(激変説)と複数回創造説を提唱した。1840年代までに地球の膨大な地質学的時間は大まかに明らかになっていた。1841年にジョン・フィリップスは主な動物相に基づいて古生代、中生代、新生代に区分した。このような新たな視点はセジウィックやウィリアム・バックランドのようなイギリスの保守的な地質学者からも受け入れられた。しかしキュビエらは生命の発展の歴史を度重なる天変地異とそれに続く新たな創造によると考えた。バックランドのようなイギリスの地質学者の中の自然神学の支持者はキュビエの激変説と聖書の洪水のエピソードをむすびつけようとした。1830年から33年にかけてチャールズ・ライエルは『地質学原理』を著し、激変説の代替理論として斉一説を提唱した。ライエルは実際の地層は天変地異よりも、現在観察されているような穏やかな変化が非常に長い時間積み重なって起きたと考える方が上手く説明できると論じた。ライエルは進化に反対したが、彼の斉一説と膨大な地球の年齢という概念はチャールズ・ダーウィンら以降の進化思想家に強く影響した。
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ジャン=バティスト・ラマルクは、最初は生物が進化するという考えを認めていなかったが、無脊椎動物の分類の研究を進めるうち、19世紀になって、生物は物質から自然発生によって生じると考え、著書『動物哲学』で進化の考えを発表した。

ラマルクは進化のしくみについて、使用・不使用によって器官は発達もしくは退化し、そういった獲得形質が遺伝する。従って非常に長い時間を経たならば、それは生物の構造を変化させる、つまり進化すると考えた。ラマルクのこの説を用不用説と呼ぶが、生物にとって適切な形質が進化するという意味では適応説と考えてよい。彼は、進化は常に単純な生物から複雑な生物へと発展していくような、一定の方向をもつ必然的で目的論的な過程だと考えた。複雑な生物は大昔に発生し、単純な生物は最近に発生した途中の段階のもので、やがて複雑な生物に変化していくと考えた。生前彼の唱える進化の機構には賛同が得られなかったが、ダーウィンはパンジェネシスという考えで獲得形質の遺伝を自説に取り込もうしたし、ネオラマルキストを自称する科学者達は、RNAからDNAの逆転写にその科学的な説明を与えようとすることが知られている。

現在ではその説に否定的な研究者が多いものの、ラマルクの仮説は科学的手続きによって検証される最初の進化論であり、そのことに関して異論をもたれることはない。

2009年04月28日

オクシデント

オクシデント(Occident)とはオリエント(東方世界)と対極をなす西方世界のこと。オキシデント、あるいはラテン語風にオチデントと表現される[1]。

元々ラテン語で「日の没する所」という意味であり、転じて西の方角を表すようになった。古代ローマではシリア・エジプトなどを「日の出る所」(オリエント)と呼んだため、オチデントとはローマを中心とした西欧世界そのものを指す。西洋史においては、トルコのボスポラス海峡より西の地域である。

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エドワード・サイードらの研究によって西欧社会の東洋からの搾取、蔑視的なイメージが批判されるとともに西洋の拝金主義、利益優先的な物の考え方も批判され、『オリエンタリズム』に対してオクシデンタリズムとして紹介された。近年では西洋においても仏教や儒教の中にも見られる東洋的な中庸の概念などに再び焦点が当てられている。

日本語では、OccidentもWesternも同じく「西洋」と訳されることが多い。

「西欧」は、Occidentの訳語としてが稀に使われるが、通常は西ヨーロッパの意味である。ただし、近現代史における西洋の典型は西ヨーロッパだとも言え、この2つの概念には連続性がある。

「欧米」は、逐語訳的に相当する表現は欧米言語には見当たらない(直訳すれば「America and Europe」だが、単に列記したというニュアンスしかない)が、Westernの意訳としてしばしば使われる。

2009年04月13日

鄧 禹(とう う、2年 - 58年)

鄧 禹(とう う、2年 - 58年)は後漢の武将。字は仲華 (ちゅうか)、南陽新野の人(『後漢書』列伝6・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の筆頭に序せられる(『後漢書』列伝12)。

13歳にしてよく『詩経』を誦し、数年間長安で学んだ。同じ頃長安で遊学していた劉秀と親交を結んだ。更始帝こと劉玄の挙兵当時、鄧禹を推挙する者が多かったが、鄧禹は出仕しなかった。

更始1年(23年)、劉玄の部将であった劉秀が河北に派遣されることを聞き、鄧禹はこれを追って鄴で劉秀と合流した。爾来、劉秀に重用されることとなった。河北で精鋭数千人を徴して劉子輿こと王郎の軍を破り、さらに銅馬と称する流軍にしばしば大勝して敵将を生け捕りにした。これにより河北がほぼ平定された。

更始2年(24年)、赤眉軍が西進して長安に攻め入り、劉玄がこれを迎撃するに及び、劉秀は隙に乗じて関中を併せようとした。劉秀自身は中原の経略に専念するため、麾下の精兵の半分にあたる2万人を鄧禹に与えて関中侵攻を任せた。

建武1年(25年)、河東郡で劉玄軍の兵十数万を撃って平定し、地方官の配置換えにより支配を徹底した。劉秀が即位すると鄧禹は大司徒を拝命し、酇侯に封ぜられ、食邑1万戸を授けられた。引き続き征西軍を指揮した。建武2年(26年)、代わって梁侯に封ぜられ、食邑四県。

当時、関中は赤眉の乱のために荒廃しており、鄧禹の征西軍は厳正に軍紀を糺していたために衆望を集めた。一日に降伏する者は千人を数え、軍勢は百万に達すると称した。時に赤眉軍は兵糧を切らして西に向かい、鄧禹はその間隙に長安を奪取した。また、劉玄配下の漢中王・劉嘉を受降した。

しかし、漢中から関中に侵入した、当時の群雄の1人の延岑に敗れ、さらに長安周辺の赤眉軍との戦闘では部将の造反や食糧不足など悪条件が重なり、劉秀は鄧禹を征西大将軍・馮異と替えることとする。東に帰る途中、馮異軍に出遭った鄧禹はなおも赤眉と戦わんとし、馮異を巻き込んで大敗した。鄧禹は敗走し、馮異は敗軍をまとめて再度赤眉と戦い、これを破る。鄧禹は劉秀と合流して大司徒と梁侯の印綬を返上し、劉秀は大司徒を免じ梁侯はそのままにした(建武3年(27年))。

建武4年(28年)、右将軍として延岑を南陽に破り漢中へ敗走させ、その残党を投降させた。建武13年(37年)、天下が定まり、高密侯に封じられた。劉秀が文治政治に乗り換えると、左将軍の賈復と共に臨時職である右将軍を辞して劉秀の意に沿う。建武中元1年(56年)、司徒を代行し、東への巡狩に随行し泰山での封禅に立ち会った。建武中元2年(57年)、明帝の太傅を務め、賓客として遇された。

永平1年(58年)、逝去し、元侯(つまり高密元侯)と諡された。

人柄・逸話 [編集]
鄧禹が鄴で劉秀軍に参加した際に、劉秀の「先生がお越し下さったのは、私に仕えたいからか?」という問いに「明公が威徳を天下に広め、私はわずかの功を立てて史書に名を残そうと願うだけです」と答えて劉秀を笑わせた。この応酬から、両人が気心の知れた間柄であったことが窺われる。
劉秀は部将の人選を鄧禹に諮ることが多く、彼に推挙された者(賈復、銚期、呉漢、寇恂)はみな有能であり、劉秀は鄧禹に人を見る目があるとした。また劉秀が鄧禹に関中攻めの別働隊の指揮を任せるにあたり、その沈着で度量の大きいことを理由とした。大司徒を拝命した際の劉秀の詔に「朕とともに帷幄で謀を巡らし、勝利を千里に決す」とあることから、鄧禹は漢初の張良に擬せられたとみられる。また詔では孔子の弟子・顔回にも例えられている。
「教養・篤行を備え、母に仕えては至孝。天下が定まってからは権勢や利殖を避け、子の教育を重んじ、帝の信任は厚かった」と評される。

子孫 [編集]
孫に鄧騭がある。また、孫娘の鄧綏は和帝の皇后である。なお、末孫に三国時代・蜀漢の名将鄧芝がある。

ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

2009年03月29日

明王(みょうおう)

明王(みょうおう)は、密教特有の仏像である[4]。

未だ教えに従わない救い難い衆生を力づくでも帰依させるために、明王が大日如来の命を受けたとも、如来が自ら明王に変化したとも伝えられている。

恐ろしい外貌と激しい憤怒の相が特徴だが、孔雀明王は唯一、慈悲を表した菩薩の顔をしている。

不動明王
不動明王は、インドや中国ではほとんど信仰の対象となっていなかったが、日本では密教を持ち帰った空海が胎蔵界曼荼羅の象徴として重視したことから、民衆の間に信仰が広まった。左に索髪(さくはつ)を垂らし、右手に剣、左手に羂索を持つ。常に火の中にいることから、光背に迦楼羅炎がある。

向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左に制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた三尊(不動三尊)の形式で祀られることが多い[5]。

真言宗(東密)では、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五つを五大明王という。東寺、大覚寺、醍醐寺、不退寺など多くの寺で、五大明王がそろって祀られている。

天部
天部は、古代インドの宗教の神々が仏教に取り入れられ、仏法を守護する護法善神となった者の総称である。官服を着た貴人姿、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など多様な姿をしている。

四天王
四天王は、須弥山の四方で仏法を守る守護神である。古代インドでは各方角を守る神とされていたのが仏教に取り込まれたものである。もとは貴人であったが、中国で武将の姿になって日本に伝わった。肩や胸に甲冑を着け、邪鬼を踏みつける。持国天は東の守護神で、領土を守り、人々を安心させる。刀剣又は鉾を持つことが多い。増長天は南の守護神で、五穀豊穣を司る。右手に刀剣又は三鈷杵を振り上げるものが多い。広目天は西の守護神で、浄天眼(千里眼)という特別な眼で世の中を観察し、衆生を導き守る。右手に筆、左手に巻子(かんす)を持つものが多い。多聞天は北の守護神で、財宝富貴を司る。片方の手に宝塔を持つことが多い。多聞天だけは独尊として祀られることもあり、その場合は毘沙門天と呼ばれる。

東大寺戒壇院の四天王像は、天平時代の秀作として知られている
八部衆
八部衆は釈迦の従者であり、天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅伽(まごらか)の8人とするのが通常である。

このうち阿修羅は、もともとインドにおける戦闘の神であり、帝釈天と激しい戦いを繰り返していたが、仏教に帰依してから、仏法の守護神として位置付けられることになった。六道のうちの修羅道を司る。興福寺の八部衆像のうちの阿修羅像は特に有名である
金剛力士
金剛力士は、本来は金剛杵を執って釈迦の近くで仏法を守護する執金剛神という一つの神であったが、インドで2分身となった。2体に分かれていることから仁王(におう)とも呼ばれる。もとは武装した姿であったが、中国で裸形が一般的になった。口を開いた阿形と、口を閉ざした吽形の2体で造られる。仁王門に置かれることが多いが、三十三間堂や興福寺の像のように、堂内(須弥壇の一番外側)に配置するために作られたものもある[8]。

梵天
帝釈天
吉祥天
吉祥天は、ヒンドゥー教における美と繁栄の女神が、仏教に取り入れられたものである。一切の貧苦や災いを取り除いて、豊穣と財宝をもたらすとされ、日本では特に古代に信仰された。中国の貴婦人の服装をし、左手に如意宝珠を持ち、右手を与願印とする立像が多い[9]。

弁才天(弁財天)
弁才天は、インドで聖なる河を神格化した女神が、仏教に取り入れられたものである。学問や知識の女神として、また財宝の神としても信仰されてきた。鎌倉時代以降、吉祥天に代わって人気を集めた。八臂の像や、二臂で琵琶を抱えたものがある

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2009年03月13日

スレイマニエ・モスクと付属保護地区

遺跡公園地区
イスタンブール市エミノニュ区スルタンアフメト地区、旧ビュザンティオン市のあったトプカプ宮殿の丘を中心に設定された地区。もっとも多くの建造物が集中している。
スレイマニエ・モスクと付属保護地区
エミノニュ区ベヤズト地区の丘の上にあるスレイマニエ・モスクを中心に設定された地区。
ゼイレク・モスク(旧パントクラトール教会)と付属保護地区
ヴァレンス水道橋そばのゼイレク・モスクを中心に設定された地区。ファーティフ区のウンカパヌ地区にあたり、スレイマニエ・モスクの丘からみて谷間を挟んだ西にあたる。
イスタンブール大城壁地区
5世紀初頭にテオドシウス帝によって建設された大城壁に沿って旧市街の外周に設定された地区。
ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

遺跡公園地区(スルタンアフメト地区) [編集]
トプカプ宮殿
15世紀から19世紀までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。旧ビュザンティオン市のアクロポリスがあった旧市街の半島の先端の丘に位置する。かつては宮殿を取り囲む城壁の傍らにアヤソフィア・モスクがあり、この地区で帝国の政治と公的行事が執り行われていた。数百年にわたって増築を繰り返された宮殿建築が残る

アヤソフィア
360年建設、537年再建のキリスト教の大聖堂。15世紀からのオスマン帝国時代にはモスクに転用され、20世紀に無宗教の博物館に変えられた。再建時以来の直径31mの大ドームとモザイク画、モスク時代に付け加えられた4本のミナレットをはじめとするモスクとしての装飾が残る。
アト・メイダヌ
古代ローマ都市ビュザンティオンの競馬場の跡地。現在の名前はトルコ語で「馬の広場」を意味し、4世紀にエジプトから持ち込まれて競馬場の中心に据えられたオベリスクが現存する。3世紀に建設され、東ローマ帝国時代には「パンとサーカス」を通じて皇帝とコンスタンティノポリスの市民が触れ合い、時に反乱の勃発地となる政治の場であった。オスマン帝国時代には公園化され、イスラム教の祝祭でパレードに用いられた。

スルタンアフメト・モスク
1616年にアフメト1世が建設させたモスク。アヤソフィアの南隣、アト・メイダヌの東隣に位置し、一帯の地名、スルタンアフメトの由来となっている。6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、数万枚のイズニク製タイルによって青く輝くことから「ブルー・モスク」の通称で広く知られている。
地下宮殿
スルタンアフメト地区の地下に広がるローマ時代の貯水池。コリント式の円柱で支えられた広大な地下空間で、ヴァレンス水道橋を通じて市街のはるか西の郊外の水源地から引かれた水がたくわえられた。円柱の基部として、ビュザンティオン時代のものと思われるメデューサの巨像の頭部が使われていることでも有名である。

スレイマニエ・モスク地区 [編集]
スレイマニエ・モスク
オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世が建築家ミマール・スィナンに命じて造らせたモスク。1557年竣工。オスマン建築の最高傑作のひとつで、大ドームの頂点の高さは53mに達する。周辺には病院などの複合施設群をもち、商業施設の収入で礼拝堂と慈善施設の経営が行われる仕組みとなっていた。

ゼイレク・モスク地区 [編集]
ゼイレク・モスク
モッラー・ゼイレク・モスクともいう。12世紀に建設されたキリスト教のパントクラトール修道院の付属教会をモスクに転用したもの。3つの教会と聖堂の複合建造物で、一部は現在もそのままモスクとして利用されているが、世界遺産として現在修復中で、観光地としての整備が進められている。
テオドシウスの城壁
3世紀初頭にテオドシウス2世の治世に建設され、イスタンブール旧市街を完全に内側に覆いつくしている大城壁。かつては内壁と外壁の二重構造の上、外側には堀がめぐらされ、さらに一定の間隔で塔が建設されて外敵からコンスタンティノポリスを完全に防御した。現在は荒廃が進んでいるが、大部分は城壁の原形を十分に保っている。
カーリエ博物館
城壁のすぐそばにある歴史的建造物。5世紀にコーラ修道院として建てられ、オスマン帝国時代はカーリエ・モスクとしてモスクに転用されていたが、20世紀に漆喰の裏から14世紀頃に描かれたモザイク画が発見され、アヤソフィアと同じように無宗教の博物館として一般公開された。細密に描かれたモザイク画がビザンティン美術の最高傑作のひとつと言われる。

2009年02月25日

F&SF誌の科学エッセイシリーズ

アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である[37]。

1942年に第一作『ファウンデーション Foundation 』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年までに中短編の形で同誌で発表され、後に(『ファウンデーション 』Foundation、1951年)、『ファウンデーション対帝国』 Foundation and Empire 1952年、『第二ファウンデーション 』Second Foundation 1953年)の3冊に纏められた。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。

1982年、30年の時を経ても鎮まらないファンや編集者の続編を求める声に遂に抗えなくなったアシモフは、遂に新作『ファウンデーションの彼方へ Foundation's Edge 』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した[40]。以後その続編『ファウンデーションと地球 Foundation And Earth 』(1986年)、時代を遡りハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲 Prelude to Foundation 』(1988年)、『ファウンデーションの誕生 Forward the Foundation 』(1992年)が書かれ、後述のロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。

アシモフの死後、著名なSF作家の3人(グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベア)が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作を発表した。

ロボット
ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット I, Robot 』(1950年)、『ロボットの時代』として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。『バイセンテニアル・マン The Bicentennial Man 』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門[41]と1976年のネビュラ賞 中篇小説部門を受賞し[42]、1999年に『アンドリューNDR114』というタイトルでロビン・ウィリアムス主演の映画になった。この一群の作品は、ロボットがどんどん進化して行き、人間と変わらないような存在になっていく流れを描いているが、日本の翻訳家・評論家の伊藤典夫は、「これはアシモフの自伝的な作品群だ。頭がよすぎてまるでロボットのようなアシモフが、少しずつ人間の感情を理解していく様を描いている」と評した。

一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。[43]

ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。
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専業作家以降
1958年にボストン大を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられる事となり、SFの執筆量は却って激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。

アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた[44]。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。 アシモフは、「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞[45]した後もひきつづいて「編者」を務めた[46]。

さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門[14]とネビュラ賞 長篇小説部門[15]を受賞した。1992年の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。

1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov's Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov's Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた[48]。

マーチン・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数発表しているが、アシモフは編集作業にはほとんどタッチしておらず、名義を貸しただけと推測される。ただし、必ずユーモラスな前書きを書いて、それらのアンソロジーに花を添えている。

推理小説
アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、重要な推理小説作家の一人でもある。

純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』は、ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決にはヘンリーの(つまりアシモフの)該博な知識が使われる。

『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた。60作は5冊の短編集として出版され(邦訳有り)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers(2003年)にまとめられた。

アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリー。『黒後家』と違うのは、『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドが傲岸で偽悪的な人物という点である。しかし全体的な構成やトリックは似ている。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。

『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』『象牙の塔の殺人』を書いている。

ノンフィクション
SF作家、推理小説作家として知られるアシモフは、ユーモラスな科学エッセイも多数書いている。なかでもファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマも物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたっている。幅広い分野での初心者向け解説書の著作も多く、その博学ぶりは彼の様々な作品に生かされている。「人間は無用な知識の数が増えることで快感を得る事が出来る唯一の動物である」という言葉が、日本のテレビ番組「トリビアの泉」の冒頭でアシモフの言葉として紹介されたが、具体的な出典は示されていない。

1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』以来、アシモフは大衆向けの科学の本も執筆していた。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書のニーズが急増した。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった[49]。

科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(1961年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた[50]。

1969年、アポロ11号が月に到達した時、アシモフは、既になくなっていた「ロケット工学の父」ロバート・ゴダードに向かって、「ゴダードよ、我々は月にいる」という言葉を向けた。この言葉は、独立戦争でアメリカ合衆国の側に立って戦ったラファイエット侯爵の永眠するフランスの地で、第1次世界大戦時に米軍将校が発したとされる「ラファイエットよ、我々はここにいる!」という言葉を踏まえたものであろう[51]。

アシモフは2冊に及ぶ Asimov's Guide to the Bible(アシモフの聖書入門)を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1300ページに及ぶ1冊の本にもまとめられた。地図と図表をふんだんに用いたこの本では、おのおのの歴史やそれに関係する政治的影響、また重要な歴史上の人物についての説明を行いながら、聖書という本を体験できるようになっている。

聖書以外にも歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作もあり、科学とは関係ない分野でも多数の作品を残した。

彼はまた、3冊の自伝も書いている -『アシモフ自伝I』(In Memory Yet Green 、1979年)、『アシモフ自伝II』( In Joy Still Felt、1980年)、I, Asimov: A Memoir(1994)。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。この自伝について、イギリスの作家マーティン・エイミスにインタビューされた時にアシモフは、「この自伝は『私という存在であることが、どういうことであるか』を、よくわかってもらえるように、正直に露悪的に書いた。私は、あまりに頭がよすぎるので、普通の人のように振舞うのは、非常に努力が必要なのだ」と答えた。

3番目の自伝、I. Asimov: A Memoirは1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した[52]。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。

他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている-『考えることを考える Thinking About Thinking 』『Science: Knock Plastic (科学 : プラスチックをたたく)』(1967年)など。

代表的著作
SF
長編
1950年 - Pebble In The Sky(邦題:『宇宙の小石』)
1951年 - The Stars, Like Dust(邦題:『暗黒星雲のかなたに』)
1951年 - Foundation(邦題:『ファウンデーション』)
1952年 - Foundation and Empire(邦題:『ファウンデーション対帝国』)
1952年 - The Currents of Space(邦題:『宇宙気流』)
1953年 - Second Foundation(邦題:『第二ファウンデーション』)
1954年 - The Caves of Steel(邦題:『鋼鉄都市』)
1955年 - The End of Eternity(邦題:『永遠の終り』)
1957年 - The Naked Sun(邦題:『はだかの太陽』)
1966年 - Fantastic Voyage(邦題:『ミクロの決死圏』)
1972年 - The Gods Themselves(邦題:『神々自身』)
1982年 - Foundation's Edge(邦題:『ファウンデーションの彼方へ』)
1983年 - The Robots of Dawn(邦題:『夜明けのロボット』)
1985年 - Robots and Empire(邦題:『ロボットと帝国』)
1986年 - Foundation and Earth(邦題:『ファウンデーションと地球』)
1987年 - Fantastic Voyage II: Destination Brain(邦題:『ミクロの決死圏 2 - 目的地は脳』)
1988年 - Prelude to Foundation(邦題:『ファウンデーションへの序曲』)
1989年 - Nemesis(邦題:『ネメシス』)
1993年 - Forward the Foundation(邦題:『ファウンデーションの誕生』)

2009年02月08日

テムル(Temür, 1265年 - 1307年)

テムル(Temür, 1265年 - 1307年)は、モンゴル帝国第6代モンゴル皇帝であり、大元ウルスの君主としては第2代カアン(Qa'an/ Qaγan、大ハーン、大カアン 在位1294年 - 1307年)。漢字表記は鉄穆耳、『集史』などのペルシア語表記では ????? ???? Tīmūr Qā'ān 。廟号は成宗、諡は欽明広孝皇帝。モンゴル語の尊号はオルジェイトゥ・カアン(完者篤皇帝 Öljeitü Qa'an、 オルジェイト・ハーン)。

テムル世祖クビライの次男チンキムの三男。父がコンギラト氏出身の正夫人ココジンとの間に設けた3人の嫡子のうちの末子にあたる。父で皇太子のチンキム、祖父クビライに寵愛されていた次兄ダルマバラが相次いで早世したため、クビライの晩年にその後継者の最有力候補となった。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアのカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンがクビライに召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。翌年クビライが没すると上都でクリルタイ(王族集会)が開かれ後継者が議されたが、監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤンは一致してクビライによって皇太子に指名されていたテムルを推し、テムルが長兄カマラを抑えてモンゴル皇帝(カアン)に即位した。

テムルが即位すると高原に対するカイドゥの侵攻はますます強まったので、テムルは兄の晋王カマラに加えて従兄弟の安西王アナンダを始めとする大軍を高原に送り込んだ。これにもかかわらず元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねたが、次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始めた。これに対して焦りを深めたカイドゥは1301年、配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王のことごとくを動員し、全力をあげて高原に侵攻した。テムルは甥のカイシャンらを追加派遣してこれにあたり、元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。カイドゥは戦傷がもとでまもなく没し、これを機にチャガタイ家の当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子チャパルを説得してテムルに服属を申し出た。1305年、テムルはドゥアとチャパルの服従を承認し、クビライ即位時の内乱(アリクブケの乱)以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされる。

テムルの政権では、オゴデイからクビライまで4代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚サイイド・アジャッルの孫バヤン(モンゴル人の将軍バヤンとは別人)が中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成してクビライの財政制度を踏襲した。テムルの後ろ盾であった将軍バヤンはテムルの即位後まもなくに亡くなったが、父チンキムの莫大な遺産を管理する母ココジンがテムルをよく支えた。

テムルは飲酒と荒淫の悪癖があったので次第に病気がちとなり、チャパルらとの和平を受け入れた頃にはほとんど病床について政務をとることができなくなっていた。宮廷では、1300年にココジンが亡くなってからはテムルの皇后ブルガンが勢力を持ち、テムルの代理として政務を取り仕切って権勢を振るった。1307年にテムルが没すると、ブルガンとその反対派の間で政変が起こることになる。

宗室
父 チンキム
母 ココジン
長兄 カマラ
次兄 ダルマバラ
后妃

ブルガン(卜魯罕 皇后)
失憐答里 元妃
乞里吉忽帖尼 皇后

男子
長男 徳壽

2009年01月23日

ダークガロンを除いた過去シリーズ

ヴァンパイア クロニクル for Matching Service (ドリームキャスト、2000年8月10日発売)
日本国内でのみ発売された家庭用オリジナル作品。『セイヴァー2』のゲームシステムを基に、ダークガロンを除いた過去シリーズの全キャラクターが総登場。ゲームモード(ゲージのタイプ)を初代『ヴァンパイア』・『ハンター』・『セイヴァー』の3種類から選び、キャラクターそれぞれが『ヴァンパイア』・『ハンター』・『セイヴァー』・『セイヴァー2』の4種類からキャラクタータイプを選択して戦う。これらは『ストリートファイターZERO3』の「ISMセレクト」のように、グラフィックや演出は主に『セイヴァー2』をベースにしているが、技の性能などがそれぞれのシリーズ風のものに変化するというもので、原作の性能そのままというわけではない(原作から全般的に弱体化がなされている)。各シリーズに登場していなかったキャラも、そのシリーズに合わせた性能が新たに設定され、各タイプを選択できる(例えば『ヴァンパイア』タイプのドノヴァン、『ハンター』タイプのジェダなど)。CPU戦は『セイヴァー2』に準じてジェダが最終ボスの共通エンディングとなっているが、各シリーズのオープニングとスタッフロールがおまけムービーとして別に収録されている。また、BGMやボイスがリサンプリングされ、アーケード版よりも高音質を実現している。「for Matching Service」というタイトルの通り、ネットワークを介した通信対戦機能に対応していたが、2003年9月1日正午をもってサービスは既に終了している。
ヴァンパイア クロニクル ザ カオスタワー (プレイステーション・ポータブル、2004年12月12日発売)
日本国外タイトル: Darkstalkers Chronicle: The Chaos Tower
『ヴァンパイア クロニクル』のPSP移植版。3体のキャラクターを選んで魔界にそびえる塔を登って行く「タワーモード」と、イラストや過去の作品のエンディングなどを閲覧できる「クロニクルモード」が新たに追加された。PSPの操作形態に合わせ、簡易コマンドでチェーンコンボや必殺技を出せる「EASYモード」が搭載されている。ワイヤレスLANによる通信対戦にも対応。なお、タワーモードやネットワークモードでは、特定の行動が制限されたり特殊な勝利条件が課される「リミットバトル」も存在する。
2005年11月17日には廉価版「PSP the Best」として再発売された。2009年1月29日には『ストリートファイターZERO3 ダブルアッパー』とのカップリングで「バリューパック」として再発売となった。
ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション (プレイステーション2、2005年5月19日発売)
日本国内でのみ発売。アーケード作品全5作の忠実移植に加え、隠し要素やアートギャラリーを収録した完全版。公式略称は「ダクコレ」。『セイヴァー』、『ハンター2』、『セイヴァー2』の3作品には隠し要素として、それぞれの作品内で全キャラ使用可能になった「アレンジバージョン」も搭載されている。このうち『ハンター2』のアレンジバージョンのみ、原作からシステムが大幅に変更されている。なお、これらは『クロニクル』とは異なり、シリーズのシステムの枠を超えた対戦はできない。
2006年12月14日には廉価版「カプコレ」として再発売された。2008年9月18日には『ハイパーストリートファイターII』とのカップリングで「バリューパック」として再発売となった。

特徴的なゲームシステム
『ヴァンパイア』シリーズのキャラクターたちは、基本的なシステムは共通となっているが、それぞれが異なる独自の特徴を持っている。例えば前方ダッシュの場合、デミトリは姿を消して前に進む、モリガンは斜め上に急上昇する、ガロンは前方に飛び跳ねるなど、それぞれで動作形態が大きく異なっている。また、通常投げを持たないアナカリスのような特殊なキャラクターもいる。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

チェーンコンボ
タイミング良くボタンを押すことで、技から技へと連鎖するように攻撃を繋げることができる。複雑な操作ができない初心者の救済策として考案されたシステムであるが、初代『ヴァンパイア』ではタイミングが難しく、初心者の役に立つとは言いがたかった。『ヴァンパイア ハンター』以降で改善された。
「チェーンコンボ」と正式に名付けられたのは『ハンター』以降で、初代『ヴァンパイア』当時は公式名称がまだなく、雑誌「ゲーメスト」などで俗に「目押しコンボ」と呼ばれていた。この「目押しコンボ」は現在のものとは異なり、弱パンチか弱キック→中→強という流れのみのいわゆる「3ボタンチェーン」である。これに対し、『ハンター』以降の「チェーンコンボ」は弱パンチ→弱キック→中パンチ→中キック→強パンチ→強キックのような「6ボタンチェーン」となっている。どちらも、途中のボタンを抜かして後位の技へ繋げたり、立ち技としゃがみ技を混ぜることも可能である(例えば立ち中パンチ→しゃがみ強キックなど)。なお、『ハンター』以降の「チェーンコンボ」は、基本的に必殺技でキャンセルすることができなくなっている(モリガンの「ダークネスイリュージョン」のような、ボタン順番押しコマンドの技を除く)。
『セイヴァー』のみ、標準で空中チェーンコンボも使用可能となっている。また、『セイヴァー2』と『ハンター2』ではダークフォース中のみ空中チェーンコンボが可能。なお、『セイヴァー』以外では、空中チェーンコンボではないが、1回のジャンプで通常技を複数回出すことが可能となっている。
ガードキャンセル (GC)
相手の攻撃をガード中に特定の必殺技コマンドを入力することで、ガード直後の動けない状態(ガード硬直)をキャンセルしてすぐさま攻撃に転じる。ガード操作(レバーを後方に入れる)と必殺技のレバー操作を同時に要求されるため難易度は比較的高いが、連続してガードさせられている間はガード操作をしなくても自動でガードするため、入力が容易になる。さらに、ガードキャンセルを発動すると、一定の無敵時間が賦与されるだけでなく、相手を強制的に硬直させることも可能(『ハンター』まで)であるため、チェーンコンボを決めるのにリスクを負わせる存在として、重要なシステムである。これもやはり初代『ヴァンパイア』では公式名称はなく、『ハンター』でこの名が付けられた[3]。
初代ではガードハメに対する初心者の救済策として搭載され、キャラクター毎に決められた特定の地上必殺技1種類(アナカリス、ビシャモン、フォボスを除く)と、ほぼすべての空中必殺技(ビシャモンを除く)が対応技となっていた。しかし、初代のGCは成功しても見た目上の変化がほとんどなく、単純に発動してもそのまま潰されてしまうことが多かったため、相手の攻撃に対する打開策にはなりにくかった。
『ハンター』ではフォボス以外の空中GCが廃止された代わりに、アナカリス以外の全キャラクターにGC対応必殺技が1種類ずつ存在し、GCを成功させると発動時に無敵時間が付加されるようになったため、大幅に利便性が向上した。また、グラフィック上の変化としても、発動したキャラクターが白く発光し、画面に "GUARD REVERSAL" の表示もされるため、発動に成功したかどうかが一目で分かるようになっている。
しかし、一部のキャラクターのGCは強力すぎたため、『セイヴァー』以降は成功の難易度を上げるため、全てのキャラクターのGC対応必殺技のコマンドがいわゆる「昇龍拳」コマンド(右、下、右下 + 特定のボタン)に統一されている。画面表示も名称と同様の "GUARD CANCEL" に変更された。また、ガードキャンセルの無敵時間に関して、デミトリの「デモンクレイドル」とモリガンの「シャドウブレイド」は技本来の無敵時間が適用され、ビシャモンの「鬼炎斬」はガードキャンセル発動時の無敵時間が適用される。

2009年01月16日

出自を巡る議論

記紀によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては種々の議論がある。

記紀の記述を尊重して、継体天皇を大王家(「天皇」号成立は7世紀)の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説があった。しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱されて、有力な説となった。

この説によれば、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まる。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、大和王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。

ところが1980年代に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘(黛弘道「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、1982年)されて、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。すなわち『上宮記』逸文がのっている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが、『上宮記』の作者は別史料を引用している。それには、真偽は不明であるが、さらに古い資料に基づいた王権系譜が載っていた。

近年では、継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする説も強い。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は、継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとしている(以下の文献参照)。また武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇ではなく、応神天皇の実在に関しても諸説ある、としている。さらに、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく、信用できるのはせいぜい継体の祖父までで、それ以前は『上宮記』の成立時点で既に伝説だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみ、とする見方もある。

現在の歴史学界では、継体が応神の5世孫かどうかは不明とし、中央豪族の支持を得て即位したのは事実とする説が有力である。いずれにしても継体は5代遡らなければならないほどヤマト王朝とは血縁が薄い。越前・近江の部族長であった継体が、20年かけてそれまでのヤマト王朝を統合し、新たな天皇王朝を作ったと考えるべきであろう。なお、継体以降の天皇系譜については、記紀の記録もある程度は信用できる。

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